伊江島はいくつもの顔がある
4/25 伊江島 1日目
>>伊江島というところ
2回目の伊江島。
まずは伊江島とは、どんなところなのか、滞在時間たったの合計4日間の私ですが、案内していただいて見聞きしたことと、にわか仕込みの情報を駆使して記してみます。
沖縄に数年きていても、今回まで聞いたことも行ったこともなかった島でした。
沖縄での作品制作のメインの滞在場所となるのがここ伊江島。前田さんの紹介で、伊江村がノーラのレジデンスを受け入れてくれることになった。沖縄本島の北部にある“伊江島タッチュー”と呼ばれる“城山(ぐすくやま)”のとんがり山がシンボルの島。ちゅら海水族館や備瀬の対岸から見える。[城山には、島でいちばん位が高い神がいると言われ、航海の安全や豊作、健康などを祈願する時、城山の御嶽に手を合わせる]そうだ。
最初にこの島を訪れたとき、伊江村教育委員会の友寄さんが、日が沈む前にまずは城山の神さまに挨拶しに行ったほうがよい、ということで日没ぎりぎりに御嶽の入口まで行ってご挨拶。山の上まで176メートル続く階段を登るというのは、7月に皆が来るときまでとっておくことに。
ノーラのレジデンスに前田さんが伊江島を推薦してくれた理由に、芸能が盛んな地域であること、ノーラの腰の低く足を踏み込む踊りが伊江の村踊りにもあること、村の教育委員会におもしろい人(友寄さん)がいること、があったようだ。
伊江の8つの地区にそれぞれ特徴的な芸能があり、地区の人たちが大切に引き継いできている。無形重要文化財に指定され民謡・村踊りともに評価が高いそうだ。鬼面踊りのペンシマという腰の低い、珍しい踊りもあり、レジデンスの時期に、練習風景を見学できればいいなと思っている。
沖縄のどの地域にいっても、それぞれの地区で豊年祭を行い、その練習や公演をする区民会館を持っていることを見て来ると、いろいろ課題はあるのだろうが、他の日本の地域とは比べ物にならないくらい地の芸能が人々の暮らしに根ざしているのだと感じる。一方、生きた芸能として後世に引き継いでいくことの大変さもあるようだ。芸能の練習にかける時間や、若い人が外に出て行ってしまい、後継者の数も減ってきている。形式的でない芸能を受け継いでいく世代の交代の難しさ。この話は訪れた沖縄のどの地域でも聞こえてくる。
沖縄の代表的な民謡で、シンボウさんも歌っている「まんしゅく節」は、伊江島が発祥の地だとのことで、友寄さんにその碑を見せてもらった。この歌は、まんしゅくと、なび、という二人の女の子のどっちが可愛いか、という沖縄の若者の楽しい恋の歌だ。そうかこの歌が伊江島の歌だったのか。
友寄さんから伊江島の話を聞く中で、同じ島でも宮古島とは受ける印象が随分と違うのは、やはり戦争の傷跡が大きいことだろう。「草木1本さえも焼き尽くされた」という表現のように、空港の滑走路があったことで標的にされたと言われる伊江島は、かなり深い傷を負った。本部から伊江に渡るフェリーの中で、山城知佳子さんに紹介され始めて、ラインで連らくとりあったあんぽゆきこさんが、事務所スタッフをされているヌチドゥタカラの家という反戦平和資料館を訪れた。“沖縄のガンジー”と呼ばれた阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが、自費で建てた反戦平和資料館。いわゆる資料館というきれいに整えられたものではなく、戦争中の生活品や遺品、当時の写真、米軍の銃弾などが、埃とカビ臭の中で雑然と、リアルさを持って並べられている。いつ塵と化してしまうのだろうかと危ぶまれる資料の山に、戦争の現実感が見える。
阿波根さんの講演の様子はこちら。
そして、伊江島には基地がある。そのことが私には見えない重圧として感じるのかもしれない。伊江島の観光マップには、北西の部分が切れている。そこが米国基地。訓練専用基地として生活空間はない。島の東に住んでいる人には、基地の存在はほぼ感じないそうだ。小学校が2つ西と東にあり、中学はひとつ。高校は島の外に通う。
島の北側の海と南側の海とでは、まるで表情が違う。北側には、湧出ワジといわれる断崖の下から湧き出す清水がある。昔は貴重な水源だったところだ。ここの上から海をみおろすと、地平線は平ではなく丸いとわかる。ああ、地球は丸かったんだなあ、と実感できる場所。こんなに青いだけの海が、軍艦で埋め尽くされた日があったなんて想像し難い。
戦争中に多くの人が避難した洞窟、千人ガマと呼ばれる場所も今は観光地になっている。
伊江島という正視するには覚悟のいる歴史を持ち、飛行訓練の米軍基地が在り、しかし素晴らしい海に囲まれた美しい芸能の島。
ノーラのレジデンスをいくつもの顔を持つ(それが沖縄ともいえる)この島で行えることは、最初はどこか馴染めないところもあったが、今はむしろしっくりと感じられる。宮古、那覇、備瀬と滞在制作をしながら沖縄本島を北上して、最終の途中経過発表の公演を伊江島で行うことは、最初からここに辿り着くように決まっていたのかもしれない。
明日は、会場となる農村改善センターで公演に向けての打ち合わせをする。