Diary
沖縄滞在日記

伊江島滞在制作 vol.1 7/14-20

7/14

記:水野立子

那覇を早朝7時半に出発し、前田さんの美術館車で伊江島に向かう。通訳兼、スタッフとして、もはやなくてはならぬ存在となった前田アキ君から、昨夜連絡があり、なんと車のバッテリーが突然切れて止まったしまったそうだ。朝までに修理ができそうになく伊江入りが遅れるとのこと。事故にならなかっただけでもラッキーだ。本部港に早めに着いたので、近くの浜に行った。なんという空、なんという海。

沖縄は晴天。つまり、すこぶる暑い。伊江村教育委員会の友寄さんが港に迎えにきてくれ、城山の神様に挨拶に行くことに。車で行ける山の中腹までだったが、城山の御嶽で自分の氏名と住所を心の中で唱えお参りする。
夜は、IEビーチで七つ星という勇姿の皆さんが、ウエルカムパーティーを開いてくれた。手作りのおいしい料理、バーベキュー、島袋ひとみさん、アンポさん、中川廣江さんの三線と歌を皮切りに、高校のときチャンピオンになった空手と、現役女子中学生の空手、ひとみさんのギター、友寄さんのブルーハーツ、次々と芸を披露してくれた。スイカ割り、線香花火などノーラが日本の文化を経験できる趣向を凝らしてくれた友寄さん、七つ星の皆さんに感謝。


(おじいに習ったという三線を披露してくれた弟と、沖縄空手を見せてくれた中学生のお姉ちゃん)

7/16

今日はこちらからアウトプットする日。伊江中学1年生から3年生まで全校生徒140名に、体育の時間に授業を行う。
伊江島に外からゲストが来る機会といのは、ほぼないらしい。ましてやコンテンポラリーのアーティストは始めて。
始めに、アーティストという生き方の選択があること、コンテンポラリーダンスはどういうダンスなのか、という説明をしてから、ノーラたちが実際に沖縄にきて制作している途中経過をデモンストレーションという形で約20分くらいで発表した。その後、沖縄滞在の宮古島と那覇の様子を映像とトークで紹介した。
終了後、中学生の感想を聞いた。「初めてコンテンポラリーダンスをみたんですが、その世界観がすごいと思いました」と。教頭先生は、「沖縄は自然の中のいろいろな処に神様がいる島。今日のノーラの踊りの中で、神を探すような見つめる仕草かなと思えるダンスがありました。」と、想像を膨らませて観てくれたようだ。

 夜、一般の人を対象にWS。70歳と思えない若々しい女性も参加。腰を回して重心を落として、汗だくの90分。友寄さん、七つ星の皆さん、那覇からアーツカウンシルの方も参加。伊江島でこちらからアウトプットする日が終わり、あとは集中した制作期間となる。

7/18

伊江島での制作は、午前中B&Gというスポーツ館にある柔道の柔らかいマットで稽古。休憩を挟み改善センターに移り、畳の部屋と会場となる改善センターの野外広場で稽古、という日課。稽古の合間に友寄さんに自分の地域の伝統芸能の手ほどきを受ける。
作品は、30分近くの内容が固まってきている。クイチャー、沖縄空手、各地の民族芸能、琉球舞踊の基本をとりいれ、想像力で自分の祈りの意味をつけていく。沖縄とノーラのエクスチェンジと発展が興味深い。祈りの島、沖縄から最終的に現代の祈りの踊りが見えてくるのだろう。

7/19

今日は改善センターの企画で、30年前に無くなってしまった神祀「大折目~ウプウイミの跡を歩いてみよう!」という催しに参加する。今帰仁歴史文化センター 仲原弘哲氏が、伊江島の大折目について講座があり、その後、大折目のいくつかの場所を実際に歩いて見てみるという趣向。その後、ホールに帰ってきて、これもまた、今は歌いつがれず無くなりかけている「アヤメ歌」を最年長92歳の方が2名いる数十名のメンバーで歌ってくれる計画だ。

実際に祈りの場の跡を見て回ると、神人が歩く道はきれいに掃除され、参拝する場所は長らく使われていないが、保存されている。今日は回れなかったが、神聖な井戸も決して埋めてしまうことはせず、ゴミが入るかもしれないが、神祀がなくなっても祈りの場所は存続させていくのが沖縄のしきたりだということだ。宮古ではその井戸も無くなりかけているところもあるようだが。
一緒に歩いている参加者の年配の方は、ウプアタイの隣家でノロさんのお世話をしていた方だそうだ。お告げがあってある能力のある人しかノロさんにはなれないが、そのお告げがあっても現代の生活では、いろいろな雑事があり、ノロさんを勤め上げることが困難な時代になってきているとお聞きした。
アヤメ歌を歌ってくれたおばあが、この大折目の最後の日に戦前までやっていた儀式として、馬に乗ったノロさんが、乳飲み子をかかえ神に捧げる生贄として抱え浜から走り去っていく、その途中で若者がその子どもを奪い返すということが、儀式のひとつとなっていたそうだ。その記憶を覚えていて、話してくれるおばあの言葉はとてもリアリティがある。
ノロさんが、拝むとき座る地面や供物を置く下には珊瑚を敷いていたそうだ。最初のレジデンスの宮古島で、ノーラが出したアイデアに、踊るスペースの下に珊瑚を敷くという案と符合していた、なんとも驚きだ。


(アガリヌンドチヌの中には、馬具や酒が奉納されていた)

私たちが公演をするウシャパドモーでアメ歌を歌ってくれる予定だったが、ちょうど雨が降ってしまい改善センターのホールで行うことになった。アヤメ歌を歌っていた時代、戦争のときにこの歌で送りだされた記憶のある男性は、とてもつらくて聞くことができないそうだ。歌詞は昔の沖縄の言葉で、理解することはでいないが、とても懐かしくシンプルで女性の強さと優しさを感じることのできる歌だった。

終演後、楽屋で皆さんとお話しする時間を設けた。
なんとかこのアヤメ歌を残したいのでこのような仲間を募って練習して、歌っている。歌っていると昔の記憶が蘇って泣けてくる、という方もいた。歌うと、とても満たされた気持ちになれるそうです。男たちを送りだし、女と子どもが家に残り、不在の時を女性たちで歌をうたい帰りを待った時代。昔は伊江島から出る船は、とても不安定な小さなものだったから、無事に着くかどうかもわからなかった。いまはよほどのことが起きない限り、安全を保障されるフェリーがある。「今は、案ずる前に情報があるさ」と、おばあがぽつんと言った。確かに。アヤメ歌は、当時、願いや祈りを込めて歌ったもの。現代人の祈りとは、どこに向っているのだろうか。

 

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