アフリカの風、琉球の風@ビセザキ
4/24 備瀬2日目
この集落を歩いていると、シンボウさんが、ライブで語る漫才のような本部のおもしろい話が想いうかぶ。といっても、本部の言葉も宮古の言葉も私には外国語と同じなので、解説してもらいようやく理解。沖縄の北部と南部の人もお互いの言葉はわからないようだ。そんな多様性を個性として共生していくことの大事さをShinBowライブではさりげなく伝えてくれる。
今日は備瀬滞在中で出会ったキーパーソンとなるお二人のお話しを書きとめておきたいと思う。
どちらも備瀬の老舗宿泊施設の主さん。
シンボウさんが数年前、ホールでの形式ばった芸能祭ではなく、村の芸能好きが集まって活きた祭りというかライブというか、地元の皆さんが楽しめる祭りを開催していた場所が、老舗のペンションびせざきの庭。
その主、熊さんがちょうど庭で作業をしていたところお邪魔をしてお話を伺った。優しい奥様が、話し込んでいる私にお茶とケーキをご馳走していただいた。
>>沖縄の昔のこと、今のこと。
初めてお会いしたにもかかわらず、忌憚のない語り口調でサバサバと、ドキッとするような話をしてくれた熊さん。決して聞きやすい話しばかりではないけれど爽快さを感じるのは、きっと過去の話も明日のためにしているからなんだろう。
「誰もが当たり前に方言を使っていた日常で、ある日突然、学校で”標準語”を使わないといけない、とお達しが出たのさ。黒板に書かれる標語は、毎日毎週「標準語をマスターしよう」それだけ。方言を使ってしまったら”私は方言を使いました”という「方言札」を首からかけられるんだ。だから友達同士で、かばい合ったり言いつけ合ったりね。家に帰れば当たり前に家族は方言しか喋らない。だから学校だけでいくら習っても覚えられるわけがないのさ。当たり前。あと円とドルの両方が出始めて、もう計算するのも大変だった。
けれど東京に寿司職人の修業に行ってからは、やっぱり生活がかかっているから必死で覚えるんだね。東京では特に寿司職人は、標準語でないと商売にならないし、人間扱いされなかった時代。
沖縄だけでなく、近頃のように”地方”の価値などなかった時代だからね。ましてや沖縄に対しては今とは随分、違っていたね。下に見られていた。今じゃ、ゴーヤは体にいいと家庭菜園でも人気になってるけど、自分が東京にきた頃は、そんなの人間の食べるものじゃねぇってね。ずいぶん変わったんだよ、沖縄に対して。
ここにいたときは、備瀬の海がきれいだとも何とも思わなかったけれど、あの灰色の砂の海には一度も入らなかったね。だからこっちに帰ってきてから、黒川温泉の主が洞窟の温泉を掘ったと知って、自分もここから浜に降りる道を開拓してね、少しでも備瀬の海を楽しんでもらえるようにと。海への恩返し。」
3年に一度のここの部落の人たちが大事にしている「豊年祭」。棒術から始まって組踊りや歌劇をいれて8時間くらいの上演時間。本部の中を4回移動して公演。9/7の初回は、部落の人たちだけがニライカナイにむかって、浜で上演するそうだ。外の人は見学はできない。
「子どものころは、意味がわからなかったけれど、自分が初めて舞台に立った時、この”神さまだけにみせる”ということは、カッコいいー。すげーって思ったね。」
熊さんの娘さんが幼い頃、琉球舞踊を見て感動で涙を流していた。熊さんはそれをみて、踊りがそれほど感動をあたえるものなら、と思い琉舞の習い事を始めたそうだ。10年前の豊年祭では、丸1ヶ月間ペンションを休みにして練習に打ち込んだ。その二人の娘さんの琉舞と、熊さんが斬られる父役で共演した出し物は、地元新聞で大絶賛されたそうだ。
このあたりは道路もまだなく、「これからは自給自足だ」というお父さんの意志に従い家族総出で荒れた地を開拓してペンションをつくったという。今では多くの宿ができたけれど、急に集落に金が入ってきたことによる変化というものが、この土地の風習や日常に変化をもたらし始めているようだ。
”沖縄”の昔の話を聞くとき、熊さんのような話をしてくれる年長者はとても少ない。今日聞けた話は、きっとずっと忘れないと思う。沖縄を支配してきたヤマトンチュー、次はアメリカ、そして、同じ日本になっても理由なき差別という目線があった。今の私たちが沖縄の話を聞くとき、加害者とも被害者とも、どちらでもない中途半端なところにいる。だけど、心がざわつくこの気持ちは隠せない。
>>「昔からの力を持った地のもの、
言い伝え聞き伝えで部落に残っているものが本当の芸能」
私が滞在している民宿・岬も芸能一家。主さんは昼間は真面目一本の包丁人だが、晩酌となると一点して陽気な主に。備瀬の区長さんから借りてきた豊年祭のDVDを見せてもらおうと母屋のテレビを見せてもらった。シンボウさんも合流して酒盛りに。
主さんの三線をシンボウさんが弾くと「同じ三線には思えんさ」とほほを赤くして唄い出す。シンボウさんの三線がブルースの弾き語りに変わる。「ラストダンスは私に」は、私の大好きなレパートリー。この曲の由来を語ってくれた。日本では越路吹雪も歌っていたシャンソンの歌だと思われているが、アメリカのドグ・ポーマスというブルース歌手の歌だったそうだ。子ども時代に病気になり松葉つえをつくハンデを負い、黒人の魂を理解するブルースシンガーになったそうだ。
シンボウさんが歌う「ラストダンスは私に」は、人の心の切なさに響き胸が痛い。
主さんの奥さんのやすえさんが帰宅して、さらに宴がたけなわに。シンボウさんのライブに主さんの茶碗の伴奏と、やすえさんが踊りだす。
「芸能というものは、国立劇場でやるような華やかなものではなく、地に残るずっと伝わってきたもの、そのままを素朴にやるのが素晴らしいと思う。そういう祭りがだんだんなくなってきている。伝えていく、ということは難しいんだね、やっぱり。ビデオができて録画したものをみれるようになったけど、それだけでは伝えられないものがある。」と主さんがポツリポツリと語る。シンボウさんはますます歌う。「こういうのが、芸能なんですよ。」偶然居合わせた夜、とてつもなく贅沢なライブを見てしまった。
「僕は昨年、初めて聞いたんだけど、シニグという神と交信するようなおばあの歌があって、それはまさにアフリカで聞くような歌。」とシンボウさん。豊作を祝い神に感謝し、来年の豊作を祈願する祀りだそうだ。6日間ある神事の最後の日がシニグで、感謝と祈りをこめて集落の女性たちが歌や踊りを奉納するそうだ。
やすえさんは、毎年シニグへの参加を20代から誘われていたが、未だ参加したことがなかったが、今年は参加しようと思うと。
シニグはシンプルな太鼓の音と歌と踊り。他のことは忘れても、このシニグの歌や踊りだけは忘れずに今でも歌っているおばあもいるそうだ。これは是非、ノーラに聞かせたほうがいいよ、という話になった。
翌朝、主さんにもう一度ワルミとに連れていってもらい、帰り道に部落の人しか知らないというウミガメの産卵する浜辺をみせてくれた。その近くの土地を吉本興業が買ったという噂があるようでいったい何が建つのか。。。
次の場所、伊江島に向かう直前にシンボウさんが岬に来てくれて、備瀬でのレジデンス内容が急展開した。
「ここにはテレビやコマーシャルの情報しかなく、観光化が進むばかり。本物の表現が無くなってきている。地元の人たちに、ノーラと自分の舞台をみてもらって、こういうのもあるんだと。ペンションびせざきでそういう機会をつくりましょう。」
備瀬の2日間の滞在は、濃い豊かな時間だった。ここの地の方たちに話が聞けたことが何より貴重だった。
沖縄レジデンスのプログラムが充実してくる。地元の人の生きている芸能と、ノーラとシンボウさんのライブ。いい夏祭りになりそうだ。
後にシンボウさんが、この祭りのタイトルを「アフリカの風、琉球の風、724 ビセザキの夕べ」とつけてくれた。